年一度、学生時代の親友のお墓参りに行きます。かれこれ30数年来の親友たちなのだけれど、我らはあの頃とっても青春で、羊だか山羊だかでした。みんなで芝生に寝っころがって夢を語りました。あんなことがしたいそれをデザインというのだなどなどエンドレスに。
現在は「夢」とか安易に使うのはどうだとか耳にするけれど、今があるのは夢があったからで、親友がそこからいなくなったのも夢だと思っていましたから。
今年もお墓の前でここ数ヶ月で一番わらったのだけれど。ごっそり笑い声がピンボールみたいにお墓石にあたっては戻ってくるのですよ。夢が現実に還ってくるみたいに。彼女との別れは、わたしたちを明るくし、わたしたちを強くしたと思います。わたしたちは、ずっと強かったのではありません。すごく弱くて、少し強くなって、すごく強くなりました。今でもわたしたちは遊びたいからたくさん働きます。わたし以外、世の中で大活躍している面子だけれど、また今夜もばかげた話で、またお墓の前とおなじように笑いまくります。そして、よく飲みます。あの頃と同じように一升瓶があっという間になくなる夜でした。
さて、あと1週間ほどで出発ですよ「旅する土鍋」。わたしが旅に出るのも、わたしを強くさせてくれた友がどこかで付き添ってくれているからで。いまや、親友と父は、空の上からぐいーんと360度の、いやそれ以上の次元で見ているのですね。日本から飛び出て片道切符を捨ててイタリアから帰ってこなくなってしまった娘を、ネットもない世界で静かに心配していた父の心臓を悪くしたのは、きっとわたしでしょう。あいかわらず困ったものだと言いながらきっとね。
そうそう、我が家の青春たちの大学では、“生きるデッサンモチーフ”である羊さんだか山羊さんだかが、子羊だか仔山羊を生んだのだそうですよ。命があってこその夢を彼らは育てて描いて創っているのですよ、そうなんです命も夢なのであり、やがて羊は期待通り爆笑するでしょう人間の前で。