いまや、日本でも多くのイタリアの食材が手にはいる時代になったけれど、あの大好物だけが、実店舗、ネットどちらを探してもなかなか見つからないのです。
タラッリには、時々出会えるのですが、フリーゼはなかなか見つからず、イタリアで一年分買い溜めてくるものを大事に食べていました。突然の緊急事態宣言ゆえに、残念ながら開催半ばで打ち切られてしまったイタリア展のお手伝いをしていたオリーブオイルソムリエ 森山陽子さんに相談すると、ピノ・サリーチェの赤松恭子シェフをご紹介くださいました。懸命に設営してせっかく始まったのに搬出を余儀なくされるような状況であるのに、明るい笑みで「焼けたら連絡しますよ」と即答くださいました。なんとも凛々しい。あの夏を再現してくださったシェフに感謝しています。
以下に、フリーゼとタラッリの物語(ノンフィクション)を。
記事末に「フリーゼの食べかた」動画を貼っておきます。夏が見つかるかもしれません。
土鍋をかかえてイタリアを旅するプロジェクト「旅する土鍋」を数年間つづけてきたけれど、去年からあの重みはカラダに戻ってこないし、あの雲の音も、海の音も、あの味も見つかりません。
あれからずっと、もう何十年も、あの味がないと夏がはじまらない。好物でしょ?と、毎年持たせてくれた窯で焼いたフリーゼ。
25年も前の夏のこと。
海が青く澄んでいたから、はしゃぎ過ぎて、肌を焦がし、熱を出しました。「海は数日おあずけよ」と、友人はわたしをなだめ、次からはニンジンをよく食べるように言いました。大きなベッドに仰向けになり、なかなか夕暮れに染まらない高い天井を見上げながらうとうとする。熱風が吹く夕刻。熱が下がったのかどうかもわからないままに。
海から帰ってきたみんなは「具合はどうだい?」「おやつ一緒に食べよう」と、カリカリのパンをガサゴソとお皿に乗せて。水をさっとくぐらせ、畑でもぎったトマトをグシュグシュにこすりつける。お世話好きな家族がこぞって、そうでない、こうであると、オリガノや塩をふってくれて完成するおやつであり、アペリティフなのです。
クラクラするほど暑い夏が、確実にそこにありました。
あの夏から、病みつきになったのだと思います。
ミラノから、友人の実家である南イタリアの海の町に、一日かけて列車にゆられて出向きました。さっき食べたパニーノも完全に消化しきって。真っ暗な車窓に空想の映画を映すか、列車がふむ枕木の数を打楽器のリズムに歌うしかない中で眠れない夜を過ごしていると、友人がアイコンタクトで列車の通路に出よう!と合図。帆布のリュックからガサゴソと素朴なタラッリを出してきて、食べてみてと。ちょっとむせて、笑いながら、朝焼けに染まってきた空を指差したあの日。
あれからだいぶ経ち、近代的になった列車や長距離バス。サービスでタラッリの小さな袋が配られるたびに、あの朝焼けを思い出すのです。