スーパーなどで見る色もきれいでサイズがきれいに揃った大振りな空豆。中身の豆に安定性はあるけれど、ごそっとさやを捨てるたびに、きっと育てるのに人工的操作はあるし、選別という人間の労力がかかっているのだろうなぁなどと切なくなるのです。
近所の庶民的なお店にはキズがあったりサイズ不揃いな空豆が売っています。愛嬌があるので好きです。さやから豆を出す前に「あした晴れる!」さや開けて「アタリ!」とか「うひゃ、ハズレ」とか、占いチックなドキドキが味わえます。サイズというか成長具合が不均衡で、さやの中に大粒ひとつ、超赤ちゃん豆ひとつとか、大きいさやのわりに豆ひとつとか、小さいくせに中豆4粒とか。さやに守られて、必死に自分が生きるために栄養をもう一粒にもらって生きたんだろうなとか、空豆が必死に生きている感じ。やはり生きるということは、単一でなく、バラつきがあったりズレたりがいいですね。
さやから出た空豆は思ったより不発が多くて。急きょ無農薬スナップエンドウも足しました。豆はもっぱら土鍋せいろ蒸し。栄養分がお湯に逃げないし茹ですぎも防げるからです。
先日「ズッペリア」で食べた「3種の豆のスープとファッロ」を参考にトマトも入れて。わが家は皮ごとマッシュ。粒つぶな食感がスープに生きていました。タマネギを入れてもおいしいでしょうけれど、空豆の風味を活かしたく今回は入れませんでした。食べる前にヴィンチ村の友が育てたオリーブオイルをツツーッと。お店ではトッピングされていたジェノベーゼペーストの代わりにオリジナルよもぎペーストを。夕食は温スープとして、残ったスープは冷蔵庫で冷やして翌朝は冷製ガスパチョ風。浸したチャバッタ(パン)は「ズッペリア」のオリジナル。
余談ですが、ドンキホーテの中で食べている「ガスパチョ」にも浸したパンが入っていて、イタリア「ズッパ」同様、パンを浸したスープをいう意味も含むようで。いまや冷製のイメージが強いが、寒い冬はそれを温かいスープとしていたそうで。語源「砕いた(さいのめ)野菜」も多く耳にしますが、そういう意味では、我が家の豆の皮まで入った食感はある意味、語源通りかもしれませんね。
1.さやから出した空豆、スナップエンドウを土鍋せいろで蒸す。
2.皮ごとざく切りにしたトマトと①、水、オリーブオイル、塩、バジルをフードプロセッサーでガーッとする。
3.鍋に移しスープの濃さを調整。水やトマトピューレなど加えて0塩で味を整える。
4.召し上がる前にオリーブオイルをクルッとかけてジェノベーゼペースト(よもぎペースト)をトッピングして、あればナツメグを少し削って入れる。ミントを添えて。